ロンドンの思い出-2
86年頃というのは、70年代の英国病から立ち直りつつ、また82年のフォークランド戦争で英国が国家として団結し、自信を取り戻してきた時代でした。
でも、社会インフラは最低。特に公衆電話。これが元来数が少ないのに、あちこちで故障していました。
当時ぼくが住んでいたのは、エッジウェアーという地下鉄ノーザンラインの終点駅でした。その昔デ=ハビランドの社長が邸宅を構えていたというところです。下宿先からは国際電話をかけさせてくれないので、使える電話を探しておくわけです。大抵故障しているので比較的当たりが大きい駅まで行くことになりす。
やっと使える電話を見つけて日本に国際電話をかけていると、電話ボックスの外でオバハンが「早く、出ろ」とせかしてきます。こっちもやっとの思いで見つけた「使える公衆電話」を探し出したのですからハイ、そうですか、とは引き下がれません。
「オバハン、俺は地球の裏まで国際電話をかけとるんだ、あんた急ぐなら他を当たってくれ」と怒鳴り返したりなんてしょっちゅうでした。
なんで、こんな国が先進国なんだ、といつも疑問に思っていました。
この年、ピカデリーサーカスではタワーレコードの一号店がオープンし、ショーケースには巨大なエイリアンがディスプレイされていました。
町の美化が進んだのもこのころからです。それまでロンドンの建物は長年こびりついた煤煙で真っ黒だったんですが、そいつをゴシゴシ落とし始めたんでね。ところがパリの建物がは比較的きれいだった。で、パリは白、ロンドンは黒、というのが当時のぼくのイメージでした。この前後の時代のロンドンが舞台の映画を見比べてみるとその差がわかると思います。
テレビはBBCしかなく、しかも昼間は放送がありませんした。ある意味牧歌的でしたね。またパブも午後2時から4時まで営業が禁じられておりました。昼間から酒を飲む呑ンベイ対策です。
帝国戦争博物館も現在とはことなり、非常に陰気な博物館でした。
あれこれ思い出してみると随分と変わったモンだと実感します。
でも、社会インフラは最低。特に公衆電話。これが元来数が少ないのに、あちこちで故障していました。
当時ぼくが住んでいたのは、エッジウェアーという地下鉄ノーザンラインの終点駅でした。その昔デ=ハビランドの社長が邸宅を構えていたというところです。下宿先からは国際電話をかけさせてくれないので、使える電話を探しておくわけです。大抵故障しているので比較的当たりが大きい駅まで行くことになりす。
やっと使える電話を見つけて日本に国際電話をかけていると、電話ボックスの外でオバハンが「早く、出ろ」とせかしてきます。こっちもやっとの思いで見つけた「使える公衆電話」を探し出したのですからハイ、そうですか、とは引き下がれません。
「オバハン、俺は地球の裏まで国際電話をかけとるんだ、あんた急ぐなら他を当たってくれ」と怒鳴り返したりなんてしょっちゅうでした。
なんで、こんな国が先進国なんだ、といつも疑問に思っていました。
この年、ピカデリーサーカスではタワーレコードの一号店がオープンし、ショーケースには巨大なエイリアンがディスプレイされていました。
町の美化が進んだのもこのころからです。それまでロンドンの建物は長年こびりついた煤煙で真っ黒だったんですが、そいつをゴシゴシ落とし始めたんでね。ところがパリの建物がは比較的きれいだった。で、パリは白、ロンドンは黒、というのが当時のぼくのイメージでした。この前後の時代のロンドンが舞台の映画を見比べてみるとその差がわかると思います。
テレビはBBCしかなく、しかも昼間は放送がありませんした。ある意味牧歌的でしたね。またパブも午後2時から4時まで営業が禁じられておりました。昼間から酒を飲む呑ンベイ対策です。
帝国戦争博物館も現在とはことなり、非常に陰気な博物館でした。
あれこれ思い出してみると随分と変わったモンだと実感します。
この記事へのコメント
英国では救急車の運転手がスト起こして、軍隊が代わりに出動したこともありました。